U216

見える未来そのすべてをまやかしだと拒絶してあげるよ!

「スリル・ミー」2011~2014

2018年12月のスリル・ミー日本公演が発表されました。
当時劇場に通い詰めた人々にとっては勿論、それ以降にキャストや作品に興味を持った方々にとっても待望の公演!

この発表よりも以前に、最近キャストのファンになった方にスリル・ミー気になるけどどんな感じ?って聞かれまして。
考察好きのオタクは是非とも観るべきです!と偏った妄想をぶちかましたんですけど、そういうのをだらだら喋れるのも手に取れない距離のある今のうちかな?と。

そんなわけでわたしにとっての「スリル・ミー」あるいはそれぞれの「私」と「彼」の所感…という名の妄想をつらつらと垂れ流していこうと思います。妄想供養。です。

<物語の概要>

1924年アメリカで実際に起こった「レオポルドとローブ事件」をモチーフに創作され、世界各国で上演されている、2人の男性俳優とピアノ1本の生演奏で上演するミュージカル。

物語は一人の老いた囚人の男「私」が、誘拐殺人の罪を問われ45年を過ごした刑務所から仮釈放の審議を受けるところから始まる。
ニーチェに傾倒する大学生の「彼」は他者と次元の違う"超人"である優越を得るため、自らに好意を持つ「私」と互いの欲求を満たす契約を交わし、放火や窃盗を繰り返していた。
いつしか更なるスリルを、究極の完全犯罪を求め、少年の誘拐殺人を実行に移す。
完璧なはずだった犯行は事件現場の遺留品から露見し、逮捕された留置所で追い詰められた「彼」が知る、事件の真実とは…

作詞、作曲、脚本すべてステファン・ドルギノフ氏
日本版の演出は栗山民也氏
上演時間は約100分


緻密でありながらとても余白の多い物語で、演じる役者それぞれの個性や発想がそのまま色になる。それにより各ペアごとに栗山さんも演出を変えていて、物語の軸の在り方、相手役との関係性、それが崩壊するきっかけがどこにあるかなどもそれぞれ。
そこがとてもおもしろく、観客も想像を膨らませられる含みがあります。
役者が十人いれば十通りの芝居が生まれる作品だと思いますが、同じくらいに観客がそれぞれのペアから受ける印象も様々だな~と公演当時感想を各所で見聞きしては思ったものでした。


というわけで以下、日本版各ペアに持っているイメージ…いや妄想を長々と書き連ねますが、あくまでわたし*1(とほぼ全公演に同行してくれた友人C)の観劇当時の印象です。きっと全然違った「私」と「彼」を受け取った人も沢山いらっしゃると思います。

<2011~13年春までの「私」と「彼」たちについて>

本国アメリカを始め各国で話題を呼び、韓国では専用劇場まで作られたミュージカルが初めて日本へやって来たのは2011年の秋。
初演、再演の新納×田代と柿澤×松下が日本版「スリル・ミー」の基礎を作り、そこへ思いっきり変化球を投じたのが12年夏から参加の小西×良知でした。

■新納×田代(初演、再演)

日本版で最もドラマチックで大人なペア。おそらく史実の二人ではなく”脚本”をストレートに芝居にするとこうなるのだろうなぁ、と思います。最初に観たペアだったというのもありますが、わたしの中では日本版の基準となった存在。

<新納「彼」>

気だるい色気漂う青年。人を従えるのに躊躇いがない王様気質で、「私」は手の中のいくつかの所有物のひとつという扱い。ただ、お気に入りを愛でるというかたちでの、ある種まっすぐな愛情は強くて、感情の向け方は最後まできちんと筋が通っている。インテリジェンス漂う振る舞いで、あまり子供っぽさは感じられない。

<田代「私」>

放火の曲こと『やさしい炎』での恋する青年の恍惚っぷりは群を抜いていたと全カップルを観てからでも思う。どんな扱いをされようとも、愛する相手に付き従い寄り添い尽くすのが幸せ、と妄信している「私」が如何にしてこの計画を起こしたのか、というところでこちらの想像力を試される。


後々他ペアを観続けることで気付きましたが、SとMの関係だと思われがちな物語にありながら、本当にドSの「彼」は日本版では数少ないです。彼らはきっちりとした主従関係であり両想いであるが故に”告白”の落差が魅力。
どうでもいいけどキスシーンで汗を舐めるというプレイ(と言っていいよね?)を披露していたのが忘れられません…12年夏は母と観劇したので気まずさったらな…あれなんだったんだろね…
数少ない歌唱映像が残されているペアなのでぜひいちど。別に今更わざわざ言うことでもないけど、歌が上手いよ!


田代万里生、柿澤勇人 出演!ミュージカル「スリル・ミー」公開稽古


■柿澤×松下(初演~4演目)

「売りはフレッシュさ」と本人たち談。大学生という役の設定年齢に上演時最も近く、等身大で19歳のモラトリアムを演じたふたり。大人になる直前の寄る辺ない少年たちの、瑞々しい、あまりに脆くぐらついた均衡の上の物語は、きっと当時の彼らにしか演じられないものでした。

<柿澤「彼」>

暗い海の底のような瞳をたずさえた「彼」。絶望の欠片をたいせつにふところに抱え込む、少年期の不安定な心の闇。激情を相手にぶつけるのを愛情表現だと思っている傲慢な若さ。ニーチェの超人論を曲解し己に心酔する「彼」っていわゆる厨二病キャラに思えなくもないですが、意外とそれらしく演じる役者は少ない印象。

<松下「私」>

賢いけれどやぼったい、生真面目な優等生。おどおどと不安げに佇み、心の拠り所を探している、まさにどこにでもいそうな普通の少年像。そういう子が尖ったやつに憧れたり庇護欲を抱いたりして道を踏み外しちゃう、ってのはいかにもありそうなリアリティ。犯行後の口論の火力が強めなのも特徴で、所謂おとなしいけどキレたら怖い人。


そんな平凡なふたりの少年が思いとどまれずに進んでしまった道…松下「私」が澄んだ声で歌う『戻れない道』の切なさが、なんとも遣る瀬なく…観ているこちらの精神も摩耗されていく。これは19歳の少年たちが実際に起こしてしまった事件なのだ、と意識させられるリアリティが哀れなふたりでした。
時を経て等身大とはまた違った手触りを得たであろうふたりが一体どんな私と彼の物語を紡いでくれるのか、今からわくわくしますね!
彼らも歌唱映像があります。


ミュージカル『スリル・ミー』〜やさしい炎〜


■小西×良知(3、4演目)

それまでの2組とは方向性を変え、サスペンス的な物語性と”恋ではない何か”を携えたふたり。加入当時既存ファンから大いに賛否を受けた印象がありますが、ここで日本版の大きな振り幅が生まれたのかもな、と。
”告白”をニコニコ無邪気に笑いながらする「私」を初めて観た時の衝撃といったら…。『九十九年』の際立った意味深さは彼らならではでした。

<小西「彼」>

冴え冴えとした冷たく硬質な質感で、寂しさの塊のよう。普通であるにはあまりにも美しく、あまりにも賢いために周囲に溶け込めない孤独。己が完璧な超人であるために、寄り添えるのは「私」だけだと正確に理解していながら、「私」を決して愛さない「彼」。

<良知「私」>

冒頭の待ち合わせ中、すごく楽しそうに鳥を観察している(「私」はバードウォッチングが趣味です)。見つめて楽しいものが「彼」以外にもきちんとあり、自立した上で物凄くおかしいので本当にたちが悪い…。始めから「彼」が自分の元へ堕ちてくることだけを求めていて、ずっと執拗に手をこまねいている。徹頭徹尾、確信犯。


手繰り寄せられた糸の先、丹念に巧妙に閉じ込められた鳥籠の内で窒息する「彼」…すべて失ってから「私」は本当に欲していたものを悟ったのだと思います。34年後の釈放の瞬間、怯えた目とこわばった指先。作り込んだ低い声音に絶望の濃さを見ました。
まーぁとにかく顔面が!強い!!!…なんですが、やたらとびちゃびちゃ音たててキスしててギョッとさせられ、終わった途端にキャッキャッはしゃぎながら手を引っ張り合ってカテコに出てくるから、感情のダイヤル狂ってんな!とおもってました。


<2014年秋公演の「私」と「彼」について>

既存ペアが大シャッフルされた5度目の公演。4演目から噂されていた伊礼「彼」の満を持しての登板、更に歌舞伎界から松也「私」が参戦。
発表時から制作面の手際はお世辞にもいいとは言えずかなりの物議も醸しましたが、蓋を開けてみればどのペアも個性的でおもしろく、充実した公演でした。

■伊礼×田代

歌の安定感、台詞の明瞭さは歴代随一でありながら、関係性があまりにもぐちゃぐちゃで混沌とした恐怖を感じる、圧の強いペア。

<伊礼「彼」>

登場から触っちゃいけない人感まるだし。誘拐の曲こと『スポーツカー』の奇行じみた動きも異様だったな…。大学で人気者かは??ですが変わり者としては有名人っぽい。トークショーでご本人が”「私」のことを愛していない「彼」”だと語っててとても納得したんですが、観た時にはむしろ実弟に執着してそうだと思っていました。歪んだブラコン。

<田代「私」>

冒頭から意味深な仕草を連発する確信犯タイプ…かと思えば急に泣きだす情緒不安定さ。まっとうにおかしな人。根本的にはドMで、強者に支配されたい願望があるのにそうしてくれそうにはない「彼」に絶望しているように思えた…執着を求めてたのかな。たぶん「殺したいのはお前だ」と言われたかったんだろうなぁ。そこが崩壊の瞬間。


「彼」は真実を知った後ですらにやりと笑ってみせる。きっと故意に計画的に、永遠の”九十九年”から逃亡を果たす。「私」を自分よりも上位の偉才、あるいは”俺が見出したばけもの”だと認識しているからこそ、日本版全組で唯一「私」に勝利した「彼」だったかもしれません。
この公演時の3組で”戻れない道”をどこまでも歩んでいたのはこの二人だけだったと思う。だって「彼」が変態なんだもん!観劇後、まりお「私」はなんでまたあんな変態に執着してるんだろ~?って友人に言ったところ「残念な男フェチなんだよ、アヲヤと同じだよ」…し、親近感~…


■小西×松下

相手役が新キャストじゃないというのは観客が前のペアを(故意ではなくとも)意識してしまう気持ちも2倍になるわけで、とても難しいチャレンジだったと思います。

<小西「彼」>

前ペア時代の冷淡さが嘘みたいに、大体ずっと松下「私」のことを見つめている。肩を抱く手とかもさりげなくやさしく柔らかく、普通に「私」のことを溺愛している「彼」。弟や父親、更には犯罪のスリルが…と言い出すのはすべて「私」を惹きつける手札で、愛情を求める幼い執着。表現が不器用なだけの、ごく平凡なツンデレ

<松下「私」>

幼い頃から自分を導いてくれた完璧なヒーローの「彼」、”超人"である「彼」をいつまでも追い求めてるけど、19歳になった「彼」が自分のミスリードに気付きもしない平凡な男だということを”戻れない道”の果てまで行き着いてからようやく理解する悲劇。ほんとはこんなことするつもりがなかった。戻れなくなってしまった、と嘆く姿があまりに哀れ。


で、あんなに乙女な松下「私」が仮釈放時にはド偏屈感漂うおじさんに変貌。刑務所内での内面変化が激し過ぎて、どんだけ荒んだ囚人生活を…と。モチーフになった史実のレオポルドは出所後”女性と”結婚し天寿を全うしているというのが納得できる人物像という感想も散見して、なるほどと思っていました。
また、あくまでこの物語で語られる《事件当時の私と彼の在り方》はすべて《私の証言》によるもので、私を愛している「彼」も、健気な「私」も、すべては偏屈おじさんの脳内妄想って可能性もあるなぁ…と…ひえー…
あと特筆しておきたいのは事後にくちびる拭いながら体を起こす小西「彼」がめちゃくちゃに性的だったことですごちそうさまです。


■柿澤×松也

最後にペア発表をされたこともあり、キャスティングの意外性もあって殊のほか衝撃が強かった印象。前ペア時代のぽっかり空いた洞穴みたいな昏い瞳はどこへやったのか?柿澤さんの振り幅に度肝を抜かれました。

<柿澤「彼」>

楽観的で享楽的で無邪気な少年。台詞通りに大学生活も謳歌してて、女も男も抱いては(抱かれては?)捨ててそうなクソモテ感。罪も罰も関係なく、楽しそうに思えることはとりあえず全部やってみたかっただけのカジュアルなキラキラクズ。日本版で最も多くこの役と向き合った柿澤さんだからこその新たな役作りだったと思います。史実みもちゃんとある!

<松也「私」>

愛情はたっぷりでも躾がヘタな母親っぽい。あれもこれもかいがいしく、どれひとつとも届かない。愛が重い、ただただ重い。柿澤さんも千秋楽挨拶で怖かったと言ってましたが(笑)、ねっとりと絡みついて相手ごと沼の底に沈んでいくような質感の重さ。34年後の仮釈放時もほとんど老けないので、愛するこどもを喪った悲しみに延々と囚われていそう。重い。


重たい母性と軽薄なイノセント。体格差が逆転しているペアは日本版初で新鮮でしたが、別に「私」が中性的である必要もないんだな~と気付かされもしました(松也「私」はある意味めちゃくちゃ女性的だったけど)。新たな選択肢として小悪魔系のかわいらしい「彼」ってのもありかもねーと友人と話した初見の帰り道でした。



暗闇にぽっかりと浮かび上がる四角いステージと階段の、シンプルで巧妙な舞台美術。栗山節迸る光と闇のコントラスト、生ピアノ1本で紡がれる繊細な音楽、その場の観客全員が固唾を飲んで「事件」を目撃する張り詰めた緊張感。
すべてを劇場で体感してこその「スリル・ミー」…とは思いつつ、その一端が垣間見られるサントラCDが発売されているのが2014年秋の公演の3組です。

伊礼×田代 

小西×松下 

柿澤×松也 


ちなみに原典英語版でもサントラが出ていますが、聴き比べると日本版は意訳を相当含んでいるので結構歌詞の印象が違います。個人的には日本語特有のニュアンスをうまく活かした訳だなぁと思います。


2016年始に公式ツイッターが残した「また劇場で会える日を楽しみに」という言葉をよすがにした日々が明けること、本当にうれしくて堪りません。
まつかきペア復活は期待感しかないし、ワンピ歌舞伎の男前エースに惚れ惚れした福士くん「彼」想像だけでもかっこよすぎるし、成河「私」はどう考えてもめっっっちゃ怖いでしょ!!!!

”禁じられた森”で二羽の鳥に再会出来る日を心待ちにして。1年後がとてもとても楽しみです。

*1:10年来らちしんじのオタク且つ歌舞伎ファンですが、ファーストコンタクトは再演にろまり、ベストペアは挙げられませんと言い張るスリル・ミー厨